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相聞によせて        桐田真輔



 去年(2004年)の年末ころ、高田昭子さんに読んでもらおうと、かって個人誌や参加していた同人誌に掲載した詩作品のテキストをパソコンにうちこんで、連日立て続けにという感じでメールで送った。かねてから古びた詩誌に載っている自分の作品をいつかパソコン上にテキストとしてまとめておきたいという思いもあったのだが、作品をお送りするたびに、毎回うてば響くような感想がいただける楽しさが、調子にのって20編をこえる作品をメールで送り続けた最大の理由だったように思う。そののち、それらの作品は、html文に変換して、自分のホームページのコーナーにも掲載した。しばらくして、高田さんから、それらの作品一編一編に対応した高田さんの「返し詩(うた)」(私の詩のイメージを念頭に置いて自由に書かれた作品、といっていいと思うが)が、私のメールボックスに届くようになった。それはやがて私のお送りした作品全編に対応する分量となった。

 こうして、私の「元詩(うた)」と、高田さんの「返し詩(うた)」という組み合わせからなる、あまり類をみないような形式で、この「相聞(あいぎこえ)」と題された作品群をまとめることができたように思う。高田さんの詩の達成をまず喜びたいが、私はその間なにをしたか、というと、創作に類することはなにもしていない。自分でも顧みることのなかったような旧作詩をパソコンにうちこんで、高田さんにお送りし、ホームページにも掲載したというだけで、そのあとに起きたことは、なんだか魔法にかかったような思いがするばかりだ。

 高田さんの作品を読んでいただければわかると思うが、そこには、対応する私の詩についてのみえない糸のようなものが張り巡らされている。ひとつの比喩が変貌して新たな意味をまとっていたり、対応作への静かな批評がこめられているように思えるところもある(^^;。またもちろん対比される作品から独立した作品として書かれているのはいうまでもない。私の旧詩を全て消去しても、ひとつのまっさらで魅力的な小詩集として味わうことができると思う。

 「相聞(あいぎこえ)」というタイトルについて少し書いておきたい。この和語のタイトルを決められたのは高田さんだが、それには、最近「相聞」(そうもん)ということばに、私がちょっとこだわっていて、時々話題にしたことも影響しているかもしれない、と思うからだ。「相聞」を手近な辞書でひくと「1.手紙などで互いに相手の様子を尋ねあうこと。2.万葉集の和歌の部立ての一。恋慕や親愛の情を述べたうた。あいぎこえ。」(『大辞林』三省堂)とあって、ふつう、人はこの二番目の意味を思い浮かべると思う。そのさきはちょっとわからないところがあって、相聞(歌)というと、狭義の恋愛のうた、という意味で受け取るひともいるかもしれない。しかし、もうすこし詳しい辞書をみると、現代で言う狭義の恋愛のうたに限定されないことがわかる(註)。

 私がこの言葉にこだわったのは、直接には、高橋睦郎『すらすら読める伊勢物語』(講談社)の「7.恋の人は相聞の人」の中の、「恋と相聞は微妙に違っていて、恋はもっぱら男女間の性愛まわりにとどまりますが、相聞は恋を含みつつ、もっと広く肉親、友人、君臣にまで及ぶ愛情一般を指します。」という一節を含む個所を読んだことによる。著者はそこで、伊勢物語の中で「男どうしの恋歌めいたやりとり」がでてくる個所を、「それはある意味で、恋の時代から相聞の時代への先祖返り」であるととらえて、そうした知見を披瀝されているのだが、私は、そこでいわれている「男同士の恋」という文脈からはなれて、というか、広義には、そういう高橋氏の文脈に沿うようにといってもいいのだが、この「相聞」というとらえ方に、現代の詩を考えるときに、ちょっとしたヒントがありはしないか、と思ったのだった。

 それは、いってみれば奇矯な発想かもしれないのだが、当時読んでいた牟礼慶子『鮎川信夫からの贈りもの』の中で、「アメリカ」をはじめとした鮎川の同時代の文学や同世代の詩人たちの作品からの多くの引用を含む詩の分析を読んでいたということがあり、そうした鮎川の手法そのものが、「相聞」という言葉に響き合うところがあるように思えたのだった。もうすこしいえば、天沢退二郎他『名詩渉猟』(思潮社)の中に収録されている「海の見える屋根の上で」という一文の中で、坪内稔典氏が「北原白秋の『思ひ出』(明治四十四年)、室生犀星の『抒情小曲集』(大正七年)、佐藤春夫の『殉情詩集』(大正十年)など、明治の末から大正にかけて、抒情小曲と呼ばれた愛誦性に富む詩が流行した。伊藤信吉の『抒情小曲論』(明治四十四年)によると、この抒情小曲は大正十一、十二年あたりを堺に跡形ないまでに消えていったという。伊藤はその消え方を「無残な消滅」と表現している。この伊藤の『抒情小曲論』は、抒情小曲をまともに論じたほぼ唯一の貴重な本だが、抒情小曲を消滅させたとき、新体詩から口語自由詩へと展開した近代のいわゆる自由詩は、きわめて自閉的になったというのが私の考え。つまり、もっぱら自閉的な自己増殖の形式になり、他者を拒む傾向が強くなった。」と書かれているが、当時その個所を読んだときにも、「相聞」という言葉が化学反応のように、脳裏を去来したのを覚えている(坪内氏は、その一文の中で、他者にひらかれた詩の重要性を指摘している)。

 とてもうまく説明できた感じがしないが、要するに私は「他者に向かう詩」のようなものをさししめしたくて、万葉的な「相聞」という言葉のまわりを回っていたらしい。そしてそのことは今でも旋回中ということなのだが、もちろん高田さんが私の作品をだしに(^^;、作品を書かれる作業というのが、その間進行していたことが、こうした考えの巡りに大きなヒントになっていたことは疑いようもないことなのだった。。

註)あいぎこえ、は、「相聞」の読み下しだが、私はうかつなことに初めて聞く言葉だった。辞書で調べると、書名として記載されている。「一九一〇刊。与謝野鉄幹が寛の名で明治書院より刊行。初の単独歌集。一九〇二(明35)年以降八年間の作九九七首を収録。上田敏に献辞。序は森鴎外。装幀高村光太郎。」(岩波現代短歌辞典)。
 万葉にみられる「相聞」の「性格」について、また辞書から引用しておこう。
「相聞歌中、恋愛歌以外の歌が約八十首あるが、そこには親子・兄弟姉妹・親族・朋友間などに交わされた歌があり、そのどれもが親愛・思慕・悲別などの私情を歌っており、歌そのものは本質的に恋愛歌と何ら選ぶところがない。すなわち『万葉集』の相聞歌は、あらゆる人間関係に及ぶ広義の恋歌と言えるであろう。相聞歌には、贈答歌など掛合いの伝統を色濃く残す恋愛に関する実用的意図を背後に帯びている歌が多数見出され、『万葉集』相聞歌がいわゆる抒情詩以前の掛合い歌の実用的な面を有する伝統をひいていることを予想させる。一方、恋愛達成の手段として言語を用いるというただの日常的実用性にとどまるのではなく、主体的な「我」の恋愛感情として抒情詩を形成し得ている歌もまた少なからず見られる。なお、『万葉集』の相聞歌においては、自称「我」の頻用が注目される。たとえ独詠的抒情歌であろうと、常に対者を予想させる「我」の「汝」に寄せる思い、「汝」の「我」に寄せる思いが交流し融解し、さまざまに情を抒べ尽くしているのが『万葉集』の相聞歌であると言えよう。」[青木生子](『日本古典文学大事典』(岩波書店)「相聞」の項の解説中「性格」の項を引用。)

付記)今年の年初に、私は「高田昭子さんの千里眼的挨拶詩」という一文を書いて、ネットの「吸殻山日記」(1月2日の項)にリンクした。今思えば、その文中で私が「挨拶詩」という言い方で呼んでいるものが、「相聞」というイメージに重なってくる。そこで取り上げている作品は、この高田さんの試みの端緒にあたるものといえるかもしれない。そういう意味で、既出の一文ながら、ここからリンクをつけておくことにします。

「高田昭子さんの千里眼的挨拶詩」



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