ひとりのひとに向けて ――私にとっての高田さんの詩と詩集


PSPの会(竹内敏喜氏主宰)という詩の合評会が月に一度あります。
合評という会の性格上、どうしても一篇の詩に対して構えた読み方になってしまいます。そうした読みがそのときのその作品にとって幸福なことか不幸なことかはなんとも言えませんが、構えることによって見えてくるものも当然あります。

ここで言う“見えてくる”というのは“作品内容の謎解き”ということではありません。
自分と他の読み手(あるいは作者)との境界線、が意識されるということです。
そういう読み方は、作品が読めるとか味わえるとかということと直結するわけではありませんが(そういう楽しみは構えていたらできません、すくなくとも私の場合は)、他者を意識的に捉える(それはとりもなおさず“自分を”ということになります)という別の楽しみを与えてくれます。

発言のしやすい作品、しにくい作品というものがあります。
これは作品の完成度や書き方の系統とは無関係です。
発言のしやすい作品が良くて、しにくい作品が悪いということもありません。

では高田さんの作品はどうかというと、私にとっては発言のしにくい作品にあたります。
これは私と高田さんの周波数の違い、立っている場所の違いが関係していると想像しています。
違うといってもそれが段違いに離れていればそうでもないのですが、ひとつふたつという違いの場合、届きそうで届かないというじれったさがあり、遠近の感覚が微妙に狂わされるようなのです。
直接お会いしてのお話やメール、お互いのブログでのコメントでは“違い”など意識することなく楽しくやりとりさせていただいていますし、特に下記の高田さんの言葉などは詩を書いたり(詩の書き方はもう忘れてしまいましたが)本や物をつくったりするときの私の考え方ともぴったり一致しますので、不思議といえば不思議です。

「誰に向けて詩を書くのか?わたくしの答えははっきりとしている。たった一人のひとのために。次は見知らぬ読者(出来れば一編の詩も読まなかったひと。)に。三番目は詩の世界に関わっている人々に。。。だからこそ過剰な自作自注は許されない作品でありたい」――「ふくろう日記」(2006年6月20日)

ではなぜ発言しにくいのか(読んで楽しむことはできるのに)。
毎月の合評会を重ねるうちに気づいたことがあります。

他の人が高田さんの詩の良いと評価するフレーズに対し、私自身は「?」を感じてしまうことがままあるのです。
そのフレーズが悪いと言うのではありません。
評価の仕方(基準?)が私と他の読み手とでは違うのかなと思いつつ、その違いの正体を自分のなかに取り込めないまま時間が過ぎていきましたが、あるとき「あ、こういうことかな」と思い当たりました。

意識的かどうかは別にして、高田さんは何かを守ろうとしていると感じます。
その“何か”の前には衝立が立っていて、それが私の側から“何か”を見ようとしても視線を遮ってしまうのです。
おそらく斜め方向や上から覗いたりする人にはこの“何か”が見えているのだとおもいます。
いやもしかすると衝立の存在すら意識せずに簡単にこの“何か”が見えているのかもしれませんが、その場合はその“何か”は読み手にとっては高田さんが守ろうとしている固有の“何か”ではなく、任意の“何か”になります。

上記の読み方が悪いわけでは決してなく、どのような読みをしようと要は読み手の自由ですし、読んだ人が楽しめれば良いと思うのですが、高田さんの作品に対しては衝立を意識しつつも、ひょいと覗き込む――そんなふうに私は読みたいとおもっています。

こう言ったからといって、何も私は高田昭子という人の具体的な固有の生を作品の読解の手段にしようとしているのではありません。
生身の一人の人間が何にこだわっているのか、どのようにこだわっているのか、何故こだわっているのか、無性に知りたくなるときがあるのです。
そこがもう少し掴めれば発言もしやすくなる、そんな気がしています。


***

詩集制作のときは高田さんのこだわりがある形になって顕れたのかな、という気がしています。
詩を書くことと詩集という具体的な物をつくることとでは同じ地平で語ることはできないとはおもいますが、生身の高田さんに触れた、という感触がありました。

高田さんはまず印刷の濃淡にはっきりした好みがありました。
本文の大きさも、微調整は可ということでしたが、前詩集の大きさを希望されました。
続いてある意味一番目立つ表紙の紙もあれこれ迷われましたが(と言っても時間的にはわずかですが)、ご自分で決められました。

多かれ少なかれ誰しも希望はありますが、印刷の濃淡を言われたのは初めての経験でした。
全体のイメージの方向性もある程度決めたうえでのスタートでしたので、私があれこれ考えなければならないことは少なくなりましたが、シンプルな本なので細部の表情、例えば紙の切り口にはそれなりに注意をしたつもりです。

高田さんの望んでいることに耳を澄ます、そんなふうに進んでいった本造りでした。
誰の場合でも耳は澄ましているつもりですが、普段よりは少し生身の人間の鼓動に耳を傾けた、イメージで言えばそれが近いかもしれません。

最後にひとこと。
校正をしながらも一読者になる時間があります。
集中の「みず色のまり」、この作品が私はとても好きです。
麻布のクロスとマーブル紙で拵えた保護ジャケット・スリップケース入りという特別バージョンを高田さんに進呈しましたが(http://suijinsha.jugem.jp/?eid=827)、「みず色のまり」から私が受け取ったものが基底にあることを記して、そろそろこの稿を終わることにいたします。


2006年10月28日  水仁舎 北見俊一