高田昭子詩集『空白期』を流れる時間
朝吹 英和
等速で経過する物理的な時間の中で展開される音楽は、何時しか日常の時間を超えて異次元の世界で自律的な時を刻む。回転する透明な多面体が日輪や月光を浴びて煌くような変化に富んだ美しさに溢れたモーツァルトの音楽。死は生にとって真の最終目的であり、最上の友とまで認識していたモーツァルトの多面体の光と影は、死に向かう存在としての人間の生の軌跡を包み込む。
標題性はもとより指向性も定かではないモーツァルトの音楽は、一瞬の澱みも見せずに疾駆する。水滴から構成される川の流れは瀬を早み、淵を巡りつつ休みないが、水は川から掬い上げられた瞬間に流れとしての生命を失う。流体の生命が正に流れの運動エネルギーの中に存在するが如く、モーツァルトの音楽は、発見と躍動に満ちた瞬間の連続体が放射するエネルギーの中にその生命を宿している。
古来より時間の頚木から解放されたいとする人間は、無常に流出する時間を生の輝きと喜びに満ちた至福の時に変換するために様々な芸術を創造して来た。音の組合せによる世界創造が音楽であるように、言葉の組合せによる新しい世界創造が詩であり、俳句である。自由で開かれた精神と感性によって構築され結晶した芸術作品には、濃密な時間への意識が存在し、瞬間の中に永遠が封じ込められている。
高田昭子さんの詩集『空白期』を読んで強く印象に残った事は、「時間」に対する思いの深さであった。
花の枝に被いつくされた
晴れた空の向こうには
幾重にも折りたたまれた空があって
空の哀しみはさらに深くなる
(「桜咲く」より)
過去に繰返され、未来にもまた繰返されるであろう万象への思い、宇宙の循環律の中に授かった生を慈しむ心が感じられる。
遠い まだまだ遠い
駱駝に乗って
はじまりの道をさがしにゆく
(「駱駝に乗って」より)
おびただしい小さな掌は
赤く染められて
死者たちのいるところまで
幼子の行進は続いている
(「もみじの寺」より)
エッシャーのリトグラフ「上昇と下降」では、時計回りに階段を上る人は永遠に上り続け、反時計回りに階段を下りる人は永遠に下り続ける状況が描かれている。同じ階段を上下しつつ擦れ違う人々の行列。
今日という現在は、必ず訪れる明日という未来によって乗越えられ、過去に連なる。明日という未来に向かって生きる人間を支えるエネルギーの源泉は、只管に遠ざかって行く昨日という過去に蓄積された位置のエネルギーである。
「あとがき」に記されているように、高田さんの詩作は「終わりのないはじまり」に向かうものであり、その作品には常に循環する時間に対する意識が通奏低音の如く鳴り響いている。
「地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう。鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘がかくされています」〔レイチェル・カーソン「センス・オブ・ワンダー」(上遠恵子訳/新潮社)〕
春―叙情
ヴィオロンの幽けき震へ三葉芹
桜咲く
哀しみを深めし空や花の冷え
春の翌日には
甦る鎖骨の記憶白魚舟
水無月
水無月や時間の外に佇めり
龍釣り
手のひらに慈しむ時川蜻蛉
駱駝に乗って
駱駝には駱駝の時間雲の峰
もみじの寺
途切れなき水子の列や冬紅葉
秋祭
河骨や死者の視線を遮りぬ
残像
残像を重ねし時間風花す