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日録、風のなかで話しましょう


2006年6月

2006/6/25(sun)
個人誌

初めての個人誌が一応、完成。
しかしぃ、、、これで良いのだろうか?迷ってばかり。
 
ひとりよがりの文章に自分勝手な詩といっても、このページに載っているもの。あとは編集の妙でストーリーをデッチあげた。これ、本当と誤解されたらどうしよう。
 
「自分勝手」は個人誌だから、まあよいか?いやいやよくない。とほほ。
 
でもみんな、どうしてリリースする勇気が出るんだろう。主体性ゼロ。とほほ。
 
(別にそれで外枠がこんな色ということも、、ないのか、あるのか。とほほ。)

2006/6/12(mon)
冷凍みかんと京大西部食堂

冷凍みかんを買ってきて、食べています。
 
これGTP(=GO TO PANTY)が歌ってヒット中ですね。メンバーのひとりが静岡県出身で、静岡のスーパーの食品売り場では、どこでも本物の食品の「冷凍みかん、4個入り。」と一緒に一日中エンドレスでCDラジカセが廻っています。
 
「冷凍みかん♪、冷凍みかん♪、冷凍みかん♪、」が「セニョリータ、セニョリーナ」に聞こえたくらいで、歌詞が聞き取りにくいけど、冷凍みかんを買って「どきどき、初デート」の彼を待っているうちに、「おなかが空いてきた」とか、かわいい歌詞みたいですね。内容はともかく(まだ全部聞き取れていない。すみません。)、詞の言葉の音感が良いので、気に入ってしまった。
 
話は変わるけど、「冷凍みかん」と言うと、京都大学西部食堂の名物でした。もっと小粒の、いま食べているほど糖度のないみかんでしたけど、京大の聴講生で通う前にも、一般のひとも利用できるということで、先輩たちと食事に入っては、半解凍されたみかんを齧っていました。
 
案外京都で学生時代を送ったひとは、こちらのほうを思い出すのではないでしょうか。

2006/6/7(wed)
倉田良成さんの芸術論集、

「ささくれた心の滋養に、絵・音・言葉をほんの一滴」が届いた。
 
まだ通読は出来ていないが、折に触れ、これまで読ませていただいた論稿の集成である。
 
著者が2003年「死生をまたぐような大病」をしたあと書かれたもので、ご本人は「あとがき」でここ数年のグローバル化の問題も例に出し、近代的な経済活動の収奪的とも言える「戻れない時間」にたいして、それ以前の「戻れる」、倉田さんのではなく私の言葉で言えば、再生産可能な時間意識を論じている。そのうえで倉田さんは「戻れない時間」を「相対化して、虚心坦懐に絵や音や言葉、また芸能表現の現場に向き合ったらどう感じるかということを書いてみた。」と言われる。
 
このようなプロジェクトについて、私は多くのことが指摘できる。私も「死生をまたぐような大病」を若いころ、過去に経験している。確かに何事かの「目覚め」はそこにあるし、私の少し前までの詩の作風には京都という、決定的に運命的に歴史的な都市に住み、その歴史として平板化される以前の現場に立ち戻って、ひとの苦痛や悲しみ、嘆きを詩にしてきた。またグローバル化では保険代理店として、多大な被害も受けた。
 
実は私は、詩や文章だけに限ってみても、病気体験以前の倉田さんを知らないのだか、倉田さんの言われることは、もちろん私なりの見解を含む、ある種の「不完全で身勝手な共感」を私のこころに呼び起こしつつあるようだ。ご迷惑でなければ良いが、それは自覚しておこう。
 
今日はこれ以上書く時間はないが、熟読のうえ何事を書いて、ものしてみたい。いまざっと見た本書は、そのように思わせる、芳しい匂いに満ちているようだ。
 
倉田良成著、笠間書院。平成18年(2006)6月。

2006/6/2(fri)
「情報の入り方が少ない」

数は少ない数人のひとから、同時にもう少し本音を入れてネットを更新しろという、お勧めか警告か解らぬ話があった。そう言えば、詩心ならぬエッセイ魂が最近は衰えているように思える。
 
ひとつには弟の飲食業の事業に振り回されて、忙しいばかりで、時間も精神的な余裕もないというのが、言いわけがましいが、本当のところ。この種の作文業というのは、ほかの仕事みたいに怠けなければ書けるというものでもない。自分の創作にかける時間や疲れ、心のゆとりがないと言うだけではなく、「情報の入り方が少ない」ということもあるだろう。一般に文筆が不作のときには、案外この自分への情報入力系の問題点が見過ごされがちな気がする。
 
高名な作家のひとがネタが尽きたときには旅行に出かけるという話を聞いたことがある。自分の言いわけに有利なように、大いにいまは賛成しておこう。
 
これからの課題。定期的に詩を書いていくこと。夏までには個人詩誌を仕上げること。本当に時間が欲しい。(またため息をつきながら書いてしまった。)



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