[HOME]

日録、風のなかで話しましょう


2007年2月

2007/2/24(sat)
もりはるカレー

一時期カレーに凝って、S&Bの生カレー粉を油で揚げた小麦粉で焼くまでしていました。おいしいカレーの作り方、ご案内。主婦の方々もトライしてください。
カレーの作り方、「渡来」だったりして。笑。
 
肉を炒めません。よく沸騰したたっぷりのお湯に、牛でも豚でも細切れの肉をひとつひとつ入れて、熱いお湯で引き締めます。醤油どぼどぼ。それからたまねぎ・を投入、5分後にウインナー程の大き目の、よく面取りをした人参を入れて、10分後にじゃが芋、あとは20分後にカレーを入れます。
 
素材を入れてから、しばらくは強火、あとは弱火です。タイミングが難しいですけど。
 
醤油スープにカレーを入れる感じ。サバの味噌煮が醤油で煮て、最後に味噌で味付けるのと同じ。素材が生きるし、人参が極限まで、味のある甘さが出ます。 
 
参考、桐田さんのブログ

こちら。ブログ

注.うえのリンクはトラックバック用です。

2007/2/7(wed)
ニューホライズンが木星を通過

アメリカNASAが去年打ち上げた、冥王星探査機ニューホライズンが今月末にもう木星を通過して、重力加速を行うというニュースが出ていますね。今日は
NASAのサイトを観ていました。やろうと思えば、早く行けるものです。
 
現在位置木星フライバイの弾道コース

2007/2/2(fri)
詩の本音

一般に詩を書くとき、具体的な必要性があって書けるときもあれば、課題や他人の詩、その他の作品に啓発されて書くときもあります。しかし特に良い詩が書けるときは、多くの場合、どういう詩を書こうとか思わず、何気なく、何を書こうとするでもなく、筆を進めるときで、それも10分で50行ほどの速度で書くときなのです。
 
ほかの人の意見も、おおむね一致している。普段知らない間に、意識下に詩は出来上がっているとしか判断できない。明確な答は、「意識」そのものを考えると、出てくるのではないだろうか。
 
意識は、大脳生理学がどうであれ、心理学がどうであれ、意識はその都度の現在の意識されている状態を、可能な形でもっている。過去に意識されたことも、無意識でも、維持している。その限りで「忘れる」というのは、「意識されたことの消失」ではなくて、いわば「思い出せない」のだ。未来に、それがどれだけ不完全であっても、意識可能な「意識する」ことを前提に意識している。意識の実存(この意味での「存在」)の本質であるのだろう。
 
「詩」という「文章」の「意識されていること」が、突然構造を成すときに、私たちは「詩を書く。」のではないだろうか。つまり意識は、さまざまな意識の可能性をまとめ上げる、まとめ方も「いわば知っている」、つまり可能であることになる。
 
上の意識の構造のなかで注目できるのは、「意識」は可能な「意識すること」を、独特の形で、集約している。たとえば「論理を外す」手法が現代詩のなかにはあるが、これも、「独特の形での集約」が働いているかぎりは、詩となるし、そのときにこそ「意識しいる」「いま」、あるいは「いまだ言葉になったことのない感受されたこと」はより顕かに表現されることにもなる。
 
ポエティック・ライセンス(詩の特権)という、比喩には著しいが、論理・文法・倫理を無視した表現形式も、この「集約」に正当性の根拠を置いているであろう。今日は雪が降り積もっているが、災いであるとともに子供たちは喜んでいるかも知れない。それは「肌色の、暖かい、幸せな雪降り。」とどこかの詩人が表現すれば、「論理・文法・倫理を無視した表現」なのである。
 
「集約」という点では、論理と非常に似ている。たとえば「うどんは食物である。」という論理的に意識したとすれば、「である。」という存在「ある」の論理的な構造は「うどん」と「食物」を結び付けている。同時にこの意識は「うどんを食べた。」、「これから食べる」にも結びつけられている。一遍の詩が成立するとき、同じような集約したものが、見られるはずである。言葉の林立は、それ自体個々の行であるにもかかわらず、独特の「構造」を持つはずである。
 
確かに「詩」という漢字自体、「言葉の構造物」という表意を持っている。また英語の"poem"も、久しぶりにギリシァ語辞典まで調べてみたが、「作る」という動詞の、日本語で言えば「作品」という形に遡るようである。(専門ではないので自信がない。)
 
詩は意識されるとともに、意識に生じる「集約」であるとすれば、ここで書き込んだなかでは、論理との区別がつかないように見える。それは「詩が何であるか」、「論理が何であるか」の問題に行き着く。請求な答ができないほとの大きな問題になるが、慌ててはいけないようである。道を続けるとすれば、論理は同時に、文法的に正しくなければいけない。社会的に倫理的に正当なものでなければ、いけない。ポエティック・ライセンスは許されない。
 
他方で論理的で、文法的で、倫理的に正しい、もっとも道徳規範に対して正しいのが倫理的かどうかは別として、そんな詩ほどつまらないものはないだろう。ここだけでも少なくとも、詩と論理を区別するには、こんな形で論じて行くことができるだろう。
 
それにしても差異は少ない。詩と哲学(論理)が同じように論じられる一側面は、ここでも現れた。詩を書くひとに限らず、観念的に(つまり意識)を論じる言葉は、詩的な表現に起源を持つかも知れないが、表現を言い当てること、逆にその主観的な詩を「論理的に」読み取ることは、相当むずかしいものである。
 
いつかこんなことも、ゆっくり纏めたいものだ。ただ「詩を書く」機縁となるものを得るには、鋭く感じること。意識するあるいは意識しないでも、感動を体験することが多いほど良いであろう。特に若いひとは多くの事柄に関心を持つべきだし、体験を多く持つことが大切だろう。

 
<3段目>
…意識可能な「意識する」ことを前提に意識している。これが意識の実存(この意味での「存在」)の本質であるのだろう。
 
<9段目>
…「論理が何であるか」の問題に行き着く。性急な答ができないほとの大きな問題になるが、…



BACK NEXT


エース