「損害保険代理店」という仕事を思い、
いまは辞めてもうすぐ1年経つ仕事を、その始めたころに振り返ってみた。 当時の私は大きな手術のあとで、30代の初め、できなかった仕事ができるようになり、その一方で何の仕事をして良いか、わからなかった。もう大学院の研究に戻るには、歳を取り過ぎていたし、再度論文を書き、博士課程を受験しないといけなかった。同時に自分がこれほど恐ろしい病魔に取り付かれた「仕事」に帰ることになる。もう外国語の浩瀚な書物に埋もれる、活字の世界、いわば白と黒だけのモノクロームな世界には、病院で生と死を見てきた人間には耐え切れなかった。弁護士や司法書士などの受験勉強も同様の理由で嫌だった。さらに母も病気で、自分も果たして来年まで生きられるか、経済的な余裕は少しはあるにしても、待ったはなかった。 また同じ歳のひとたちは、社会でそこそこの地位を得て、結婚し、小さい子供たちが居た。しかしこんな幸福は、上のような理由で、私にはとても望めるような状況でもなかった。あの当時私は人生に、まったくと言ってよいほど、意味が見出せないで、「立ち往生」していた。 こうして半ば「絶望」しかけたときに、ある日新聞に保険代理店研修生として保険会社の嘱託社員になる広告が出ていた。時間的にも母親の面倒が見れ、私も病院通いが出来、自分の知識も生かせる。ほんの気まぐれで、電話をすると、よく話を聞いてくれて、面接、すぐ入社が決まった。当時は保険会社も代理店研修生の募集を絞っている時期で、その年は、結局私ひとりが京都支店で入社しただけだった。そのうえ研修生になって数百人のうち、数えるほどしか保険代理店として独立できない状況で、残ったのも幸運であった。さらにこれが、私がした始めての就職活動であったのだ。(ただし私の出社前日が、私の母の二度目の入院日であった。) はじめは営業関係の研修、研修で面白くもなかったし、ほとんど契約も取れないでいた。しかしそのうちに毎日、毎日ひとと出会い、話をする、それまでは社交性とはまったく縁のなかった人間が、逆にしゃべるのが楽しくなっていった。さらにとんでもない自分の才能に気がつく事件が続いた。何度かその筋のひとと、契約者の事故で相手をすることになった。こういうひとたちは動きが早くて、私が第一報を入れるまでに契約者宅以外に保険会社の営業部から損害調査部まで電話を入れて、結果女性社員たちが怖がって電話に出ないようにしてしまうような有様だった。自動車を運びこまれた整備工場、あるいは相手の行く先々(病院など)からは悲鳴のような、パニックに迫った電話がどんどん入ってくる。 ところが私はまったく冷静で、不思議に言葉に説得力もあったようで、相手が言うことを聞いてくれた。以後数回の接触も保険会社の男性社員とともに順調にかたが付いた。逆に相手がこんなことにも慣れていてくれた分もあるし−解決方法は相手のほうが、私たちより相手なりに詳しい。−、あるいは私も自分が死ぬことには十分すぎるほど怯えていたせいかも知れない。こういう覚悟はこの種の人間には感動を呼ぶようである。確かに柄の悪い自分の契約者もいたが、必要な場合は怒鳴りつけた。(この怒鳴りつけたことが柄の悪い当人に、けっこう受けた。)そして大事な点であるが、自分が20代の前後に詩を書いていたことも忘れていた。世のなか、夢中になることは大切なことのようである。 こうして不思議な自分の適性に気付いてから、病気の不安だけは事実的な問題であるから、ごく最近までは拭えなかったのだけど、当時私は学問や病気の成す囚われの身から解放されたような気がした。朝仕事に出て、実にさまざなひとたちとさまざまな話をし、約款を調べ、保険料を計算して、事務処理と楽しい事故処理をする。(苦しい局面はあったが、事柄、それは当然であった。)夜中は母のために食事を作り、その世話、さらに夜半まで数時間の保険の勉強と、忙しいが毎日が楽しくてしようがなかった。自分が社会の真ん中に居るように感じた。 これは実に驚くことで、20代の後半もう仕事もなく、病院通いをしていた、もうすぐ死ぬと思われ、友人が次々と離れていったような孤独な人間の獲得した幸せだったのだ。気がつくと、ほとんど勘ひとつで火災保険の保険料も出せるようになった。この分野では、若い代理店は問い合わせてくるし、社員も指導した。自分が正しいと表明した意見が、先を見通していたのであろう、いつしか私以外のところからも出て、保険会社の業務の標準になったりもした。私の作った数枚の保険募集のチラシは、いまでも大きな保険会社の常備のパンフレットになっている。自動車保険では何度も弁護士事案になり、弁護士さんに協力もしたし、訳のわからないことを言ってくる変な弁護士は、法律論をもって罵倒した。そんななか保険改革でほかの代理店が契約を減らすなか、私だけが増収していった。 昨年はついに思い知るようなことがあって、もうこの時代は私のように個性と知識で保険業務を処理して、こつこつ契約を取るタイプの代理店を必要とする時代ではなくなってしまい、私はあの仕事からは離れたが、いまでもあの仕事をすることで自分は救われたし、病気に打ちひしがれて惨めであった自分に誇りが持てたことは確信している。もちろん代理店仲間の、立派な友人たちも出来た。(去年は派手な送別会までしてくれた。)契約者のなかには、いまでも連絡をくれるひとたちがいる。その幾人かは熱心な私の詩の読者でもある。 あの当時のこととあの仕事だけは、私のこころのなかで、いつまでも消えてなくならないものだろう。すべてはじまりにあったのだ
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